ティムールの五代後の直系子孫であるバーブルは、中央アジアのトランスオクシアナをウズベクのシャイバーン朝に追われ、南のカーブルを本拠地として雌伏していたが、晩年に目標を中央アジア奪還からインドの奪取に切り替え、1526年にパーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝最後の王朝ロディー朝を破り、デリー、アーグラを制圧してインドにおけるティムール王朝としてムガル朝を建設した。
バーブルの死後、後を継いだフマーユーンはグジャラートに勢力を広げるが、ロディー王朝と同じアフガン系のスール朝を開いたシェール・シャーによって1540年にデリーを追われ、やがてアフガニスタン方面にいた諸弟もフマーユーンに離反したため、ムガル朝は一時崩壊した。フマーユーンはシンド地方を放浪した末にイランのサファヴィー朝のもとに逃れ、その支援を受けて1545年に弟たちの支配するカンダハール、カーブルを相次いで奪還、シェール・シャー死後内紛によって分裂したスール朝を討って、1555年デリーに返り咲き、ムガル帝国を再建した。
ムガル朝を真に帝国と呼ぶにふさわしい国家に発展したのは、1556年に不慮の事故死を遂げたフマーユーンを継いだアクバルの治世である。
アクバルの統治方針は、多様な社会階層からの人材抜擢とその方針の徹底であった。そのため、アクバルの政府にはシーア派のペルシャ人、アラブ人、現地ヒンドゥスターンで生まれ育ったムスリム、ラージプート、バラモン層、あるいは、マラータ人までが参画していた。また、ラージプートなどの豪族層を自らの支配層に取り組むために、彼らが所有する領地からの収入を認めるとともに、ヒンドゥーであるラージプート出身の女性を妻とした。
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また、アクバルはイスラーム以外の宗教に対しても寛容であったことが知られる。帝都ファテープル・シークリーには、バラモン、ヨーガの行者、ジャイナ教徒、イエズス会士(彼らはゴアに滞在していたポルトガル人である)、ゾロアスター教徒が集まり、議論をさせることを好んだ。さらに、サンスクリットで著述されていたインドにおける二大叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』を翻訳させた。加えて、ムスリム以外に課せられるジズヤの廃止も行った[1]。
アクバルは行政改革をも実施した。イスラーム王朝の性格が強いムガル帝国であるが、ムガル帝国初期の行政機構は、農業に基盤を置いていた近代のほかのアジアにおける諸帝国との共通点が多い。
一つが貴族制を導入したことである。貴族は「マンサブ」と呼ばれる位階が授与された。その位階は10の単位で表示され、貴族にはその数だけの騎兵を皇帝のために準備することが義務化された[2]。さらに、文官と武官の区別が明確化され、相互にチェックできる仕組みであり、彼らには一定の「ジャギール」と呼ばれる一定の土地の徴税権が割り当てられたが、定期的にジャギールは、別の地域が割り当てられるようにすることで、彼らが地方で拠点を確保して帝国に反抗することを阻止した[2]。
アクバルは東はベンガル、南はデカン高原まで進出して北インドのほとんど全域を平定した。アクバルの他宗教への寛容性と完成された官僚制は息子、ジャハーンギールに引き継がれた。